地中海に面する北アフリカの国モロッコを舞台に、それぞれ孤独を抱える2人の女性がパン作りを通して心を通わせていく姿を、豊かな色彩と光で描いたヒューマンドラマ。これが長編デビュー作となるマリヤム・トゥザニ監督が、過去に家族で世話をした未婚の妊婦との想い出をもとに撮りあげた。臨月のお腹を抱えてカサブランカの路地をさまようサミア。イスラーム社会では未婚の母はタブーとされ、美容師の仕事も住居も失ってしまった。ある日、彼女は小さなパン屋を営むアブラと出会い、彼女の家に招き入れられる。アブラは夫を事故で亡くし、幼い娘との生活を守るため心を閉ざして働き続けていた。パン作りが得意でおしゃれなサミアの存在は、孤独だった母子の日々に光を灯す。アブラ役に「灼熱の魂」のルブナ・アザバル。
モロッコ、彼女たちの朝評論(20)
僕が最近鑑賞した作品では「プロミシング・ヤング・ウーマン」「17歳の瞳に映る世界」がそれにあたるかと思いますが、女性視点の作品は「グサリ」と突き刺さります。
さて本作、まず目を惹くのは「フェルメール」の絵画のように美しい映像。さらに、自然な音や光の使い方も素晴らしかったです。
一方、抑え気味なビジュアルに反して、ストーリーの背景が重たい。
「婚前の性交渉や中絶が違法の国」モロッコで、未婚の女性が妊娠。臨月の中、ホームレスのように街を彷徨うところから物語がスタートします。
婚外子として生を受けた子どもは出生届すら出すこともできないため、この世の中に「社会に存在していない子ども」となってしまう。
夫の死に向き合うことができず感情を抑えながら生活をするパン屋のアブラと、出産しても自分で育てることができない現実の厳しさを抱えるけど直視できない主人公サミア。
アブラの娘の可愛さや、パン屋さんが繁盛する明るい要素との対比で、2人の繊細な心の動きが手に取るようにわかります。
そして出産。
授乳、名付けのシーンのあたりでは、切なくて、涙でスクリーンが見えませんでした。
女性だけがすべて背負い、それでも生き抜いていく。
とても繊細で力強い作品でした。
日本でも、女性監督による同様のテーマ作品を観てみたいです。
頑なに生きるシングルマザーと(多分)生き方に柔軟な妊婦が共に生活していく中で互いに影響し合っていく。
出産した後は里子に出すと言う、柔軟だけど社会にあらがいきれない妊婦に、頑なで柔軟性がないように見えたシングルマザーが、後悔する別れだけはするなと説得する。最後はハッキリとした結論が描かれないまま終わる。
ムスリム圏ではまだまだ社会の締め付けがきついのだろう。
遠い昔見たムスリム圏の映画には、男が買春はするのに、生活手段がなく売春しか出来ない女を足蹴にする男が描かれていた。この矛盾を何とも思わない男達が信じられない。
先日ネットでアルジャジーラTVを見ていたら、アフガニスタンの放送関係の女性が3人殺害されたニュースを見つけた。
映画のモロッコはまだましな様子だったが、女性達が手をつなぎ少しずつ生きやすい社会を作って欲しいと強く思った。
男女格差が制度化されたイスラム圏のモロッコでは、妊娠中絶が法律で認められておらず、未婚の母は忌み嫌われる存在だという。トゥザニ監督は、かつて両親が面識のない未婚の妊婦を迎え入れて世話をした実体験をもとに、ストーリーを紡ぎあげた。
説明過多になりがちな邦画に慣れていると、あるいは情報が足りないと感じるかもしれない。サミアが未婚の母になった経緯は明かされない。彼女を受け入れるアブラが夫を失った事情は後半に彼女の口から語られるが、葬儀にまつわる話などは、イスラム社会の知識がないと単に理不尽な扱いのように聞こえそうだ。それでも敢えて説明を抑えているのは、観客のリテラシーを信じているからだろう。
望まない妊娠と出産という点で辻村深月原作・河瀬直美監督の「朝が来る」に、イスラム社会の男女格差がテーマになっている点でトルコの村の5人姉妹を描いた「裸足の季節」に通じる。これらの映画が好きな人なら、きっと本作も気に入るはずだ。
外国どころか、隣の県でさえ行けない今日この頃、遥か彼方のモロッコの街を見られたのが、うれしい。あーどこかへ旅したいっ。
臨月の妊婦サウラが、荷物一つ持って、街を歩く。泊まるところと仕事を探しまわる。でも、みんな冷たい。誰も彼女を顧みない。お腹の子供がどうなっても、誰も何も感じないのだろうか。一体、彼女はどれくらいさまよっていたのか、すごい不安だっただろうな。この物語は今より少し前の時代かな、と思うが、どうなのだろう。できたらモロッコの社会が、もっと柔らかくなっていて欲しい。
未亡人アブラは感情を抑えて生きている。娘のワルダを「きちんと」育てることと、仕事をこなすことだけで、自分のことは後回し。好きだった歌手の曲も聴かない。楽しむことを禁じているみたい。
そんな2人が互いに助け合い、影響しあう。サウラは生来、音楽を聴いたり、踊ったり、着飾ったりするのが好きそう。パンをおいしく作ろうとか、ワルダとじゃれあったりとか、生活を楽しもうとしている感じ。今は身重なのが枷ではあるが、産んで身軽になれば、何とかなると考えている。規制の強い世の中で、自分にとっても、こどもにとっても、養子に出して、別れて暮らすのがベストだと自分に言い聞かせている。
そして、とうとうお腹の中が空になる日が来た。十月十日育ててきた、生身の赤ん坊がサウラの目の前に現れた。産む前はクールでいられたのに、急に動揺してしまう。顔を見ない、抱かない、乳をあげない、がんばって抵抗する。ここで、もしかして赤ん坊を殺しちゃうんじゃ、と不安になった。でも、やっぱり母性が勝った。よかった。そして、子供に名前をつけて、未婚の母として生きる覚悟をしたんだろう。サウラとアダムの未来に幸あれ。きっと楽しいこと、たくさんあるよ。
アブラも笑顔が出るようになり、化粧したり髪型変えたり、柔らかくなった。これからは人生を前向きに楽しめると思う。こちらも良かった。
作中で作られるパンがすごくおいしそう。バターや油をたくさん使っているので、カロリー高いだろうが、おいしさは間違いないんじゃ? あの細くよってくるくる巻いて、少し押しつぶして焼くパン、食べてみたいな。
未婚の妊婦サミアは、手に職もあるのになぜシングルマザーとして生きる決心をしないのだ、なぜ生まれてすぐ我が子を施設に入れようとしているのか、なぜ何食わぬ顔で実家に戻って普通に結婚しようとしているのか、そしてなぜ産み落とした直後の我が子に頑として乳をあげようとしないのか、、、こんな風な常識的な「なぜ」が渦巻いた。それはひとえに私が「事実」を知らない無知ゆえだった。かの国では、未婚女性が子どもを産むことのタブーは想像を絶し、必ずや社会的孤立を生み、主観的に愛したとしても我が子は必ず不幸になるに違い無い、という事実。いくら芯が強くても、社会慣習、社会意識などの環境を変えるほどの団結は遠い。何しろ、女性同士でも立場が違えば露骨に非難しあってしまうのが現実だから。
鑑賞後時間が経ってもじわじわする映画には共通点があると思う。映像の記憶が、空気の記憶、匂いの記憶、温度の記憶、肌感触の記憶につながっていること。印象的なセリフの裏にあるたくさんの意味を反芻してみたくなること。そして、手持ちカメラで捕らえられたアングル、距離、手ブレを通して、もう一人の出演者としての作り手の視点を終始感じられること。
印象に残ったシーン:パン生地をこねる手のアップ、丸いお腹の皮膚のざらつき、フェルメールの構図を思わせる光のあるパン工房、あの彫りの深い顔に施される気合いの内瞼アイライン、、、、いやキリがない。