「三月のライオン」「ストロベリーショートケイクス」の矢崎仁司監督が1980年に発表した長編デビュー作。誕生日を迎えたルームメイトの美津のために、夏子はおそろいの乙女座のネックレスとバラの花を買ってくる。しかしアパートの窓には、美津の恋人・英男が来ている合図の白いハンカチが下がっていた。ひそかに美津を愛してしまった夏子は、彼女を独り占めしたいがために英男の子を宿し、やがて2人の関係は破局へと向かう。そのセンセーショナルな内容が話題を呼び、ヨコハマ映画祭自主制作映画賞を受賞したほか、世界各地の映画祭で上映された。16ミリフィルムの劣化や使用楽曲の権利問題により長らく封印されていたが、現代の高度な技術でフィルムの修復を行い、2019年3月に「デジタルリマスター版」として劇場公開。
風たちの午後評論(3)
元々異性愛を自覚して対象を異性に求めること、そして無自覚のまま愛する対象者が同性だったこと。それを隔てる要因は、理性か本能か、はたまた縛りか解放か。何れにせよ愛は盲目であり、愛は打算である。
本作は監督が学生時代の制作ということで、確かにいわゆる学生映画の作りである。ただ、監督なりに色々な拘りや仕掛け、メタファー、ダブルミーニング等々、散りばめられていて多分その時代に於いては一目置かれるレベルだったのだろうと思う。頭でっかちな部分が見え隠れするのも、生意気なコマッシャクレ感が漂っていて中々乙である。
勿論、全体的には荒々しく、大雑把な作りは否めない。独り善がりさも鼻につく部分も多い。しかしその全てが正に『若さ』という言葉で括れることは美しいと思う。主人公の無軌道さ、狡賢さに行き着かない中途半端さ、そして純な恋愛を信じる強さを稚拙ながら描き、紡ぐ正直さを作品を通じて余すところ無く表現している。完成度が低いということは今作品に於いては余り意味をも持たない。ラストを結局主人公の死及び、その対称にある生まれる筈であった赤ちゃんの泣声とのオーバーラップに収める着地の疑問点も重要なところではない。抗って藻掻いたという痕跡が作品に爪痕を残してることをキチンと観客に印象付けているかということが重要であり、紛れもなくその行為が映画制作というものであろう。
その切なさ、その報われ無さは、古今東西、時代が変わっても普遍であり、その理不尽、不条理を何処まで伝えることができるか、映像作家としての永遠のテーマであることに紛うことがない。
愛が動機なら、やっちゃいけないことなど何一つないって、いい言葉。
狂おしい想いへの共感はある方だと思うが、血文字を書くところはさすがに限界で、これまで見たどんな映画よりも狂気を感じた。秘めた想いが不意に生々しく現前して面食らったのかもしれない。