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カメレオンマン評論(1)
ウディ・アレンはひねくれている。
愛について、人生について、あれやこれやとユーモアを交えながら、ぐだぐだと、ある種の面倒臭さも醸し出しながら、叙情豊かに語りつくす。
その一筋縄では行かない、少なくとも友人としては付き合いにくそうな所こそ、ウディ・アレンの魅力であって、僕が大好きな部分なのだが、その「人格」が最も出ているのは、代表作とも言える「アニー・ホール」や「マンハッタン」ではなく、実はこの作品ではないのかと思う。
まず、フェイクドキュメンタリーという、一見変わった変化球の作風に見える(初期の作品である「泥棒野郎」も似たような手法だが)ものの、コミュニケーションの上手く取れない男が、不器用ながら器用に、ただ女に愛を伝えようとするという構造は、紛れもなくウディ・アレン映画なのであって、本質は全く変わらない。
自身のコンプレックスについてもそうである。
わざわざフェイクドキュメンタリーにしておきながら、顔の知られた自分を主役に据えているのだ。
そうして、あくまでも「ウディ・アレン」を出す事で自虐的な表現をし、それをもって世間を批判している。
こんなひねくれた奴、そうそう居ない。
何よりウディ・アレンは、劇中で「チェンジングマン」なる劇中劇を撮っている。
これは要するに「映画化もされるほど有名なカメレオンマン=ゼリグ」を表現する為の映像なのだが、わざわざ違う俳優を使い、30年代の質感を再現して、本編と同じ内容の劇映画の数シーンを撮っているのだ。
僕が何を言いたいかというと、じゃあ本編はそれでいいじゃねえかという話なのである。
実験映画としての試みも、もちろんあるのかもしれない。
むしろ、ウディ・アレンは実験が好きそうだが。
しかし「カイロの紫のバラ」のように、万人受けする映画として、いくらでも売り出せたはずなのだ。
映画監督ならば、その方が確実にヒットを生み出せると考えるはずだ。
実際、この「カメレオンマン」は脚本的にも普通に面白い。
最後の展開などいかにも映画的で、劇映画として撮っていれば、ウディ・アレン作品の中でも、もう少し人気は高かったのではないだろうか。
だがウディ・アレンはあえて、ギャグのために、そしてウディ・アレン=ゼリグという人物の、世の中における立場をより深く考えさせ、観客にテーマを伝えるために、とてつもない手間をかけてまでフェイクドキュメンタリーとして制作し、世間を、そして事実をドラマチックに変えたがる映画業界を、ものの見事に茶化している。
なんてひねくれた奴なのだろう。
どれだけチャレンジ精神旺盛なのだろう。
自分がやりたい事を、とことんやっている。
いい具合に古さを感じさせる音楽や、小道具の作り込みも半端ではなく、かつてカメレオンマンが本当に存在したように錯覚させるほど、時代の再現に徹底している。
「フォレスト・ガンプ」の10年前に作られた映画にもかかわらず、ヒトラーやベーブ・ルースが映っている昔のフィルムに、ウディ・アレンを合成する技術も違和感が無く先駆的だ。
このフェイクフィルムが、より作品の完成度を上げている。
だが一方で、壁を歩いたり、足の関節を逆に向かせたりなど、到底信じられないような一発で嘘と判る荒唐無稽な映像も、ギャグとして造っている。
ドキュメンタリーという体裁で行く以上、普通なら出来る限り「本当らしく」見せようとする所を、この「嘘」と「本当」の矛盾を衝突させ、ギャグに転化させているのが、たまらなく良い。
特に滑稽なカメレオン・ダンスの酷さなど、もう苦笑いするしかない。
なんて意地悪な奴なんだろう。
一般受けはしないだろうが、個人的にはこれがウディ・アレン作品のナンバーワンだと思っていて、名前を拝借する程に惚れ込んでおり、僕の中では生涯のベスト映画のひとつになっている。
ちなみに「泥棒野郎」の方も間違いなくフェイクドキュメンタリー・コメディの傑作だと思うが、より洗練され、突き詰められたこちらの方が僕は好きだ。