日本占領下の中国の村で対峙する村人と日本兵の交流と確執を狂騒的に描く衝撃作。監督・製作・脚本・主演は「太陽の少年」のチアン・ウェン。俳優としては「芙蓉鎮」「紅いコーリャン」でよく知られている。原作はユウ・フェンウェイの短編小説『生存』で、脚本には彼も参加。撮影は「さらば、わが愛/覇王別姫」のクー・チャンウエイ。音楽は有名ロック・ミュージシャンのツイ・チエンほか。共演は「独立少年合唱団」の香川照之、今回が初の大役出演となるチアン・ホンポーやユエン・ティン、「上海ルージュ」のチェン・シュ、「南京1937」のツォン・チーチュン、「カラー・オブ・ペイン
野狼」の澤田謙也、「天国の大罪」の宮路佳具ほか。2000年カンヌ国際映画祭グランプリ受賞。
鬼が来た!評論(7)
後半30分は、まさに日本軍の非道ぶりを表現したかのような内容でしたね。南京大虐殺の事実なんかを必死で隠したがるどこかのお偉いさん達に是非見て頂きたい映画です。
「鬼」というテーマにおいても、終戦がわかっても疑心暗鬼にかられ惨殺を続ける日本軍がまさに「鬼」であると訴えたかったのだとわかります。また、このテーマにおいては、戦争が終結したにもかかわらず自衛のためと現地の人を殺している現代も一緒だなぁ~と考えさせられます。
全体を通して「軍艦マーチ」が流れていますが、中国や朝鮮の人たちは忌み嫌う音楽なんでしょうね(映画なのにわざと下手くそな演奏だし)。余談になりますが、パチンコ屋で軍艦マーチのかかる店というのは日本人の経営してる店なんだろうなぁ。。(違ってたらごめんなさい)
突然押し付けられた日本兵の処遇をめぐって、村人はパニックに陥り、それぞれの人間の本性があらわになる。また監視し殺害を試みようとする村人たちは「リマ症候群」に陥り「捕虜」と奇妙な関係が芽生えていく。
深刻な悲劇なのに、なぜか彼らの行動はコメディそのもの。悲劇と喜劇はまさに紙一重だ。
しかし、村での宴のシーンから映画の雰囲気は一変する。そこからは暗黒の世界へまっしぐら。
全体的に反日的、嫌日的な作品としてつくられてはなく、かなり冷静かつ公平なかたちで反戦作品を作っていると思う。デフォルメされた日本軍人像ではなく、ちゃんと日本人の俳優が演じているところも自然。
逆に中国の反日強硬派からしたら、日本に迎合的にデフォルメされていると思うかもしれない。
鬼ごっこは、捕まえられたものが次の鬼になる。その繰り返し。憎しみも替わったものが引き継いで、倍加する。憎しみと哀しみの永遠の連鎖。
そして、このチャン・ウェンというおじさんの凄さを目の当たりにしました。監督で主演で、脚本で、このクオリティは、鬼です。
脱帽です。
凄く悲しいお話で、とても興味深く、うねりのある脚本で、素晴らしいです。それ以上に、演出の妙で、コミカルさがずっと流れてます。
その頂点が、斬首の際の首に這う虫を指で飛ばす仕草です。これから、人の首切るのに、虫払い除けるの、馬鹿馬鹿しくないか?でも、何か分かんなくはないか。。みたいな、気持ちになる妙な場面です。
これが表現、これが映画、これが監督のすること。
ものすごく好きな映画です。
フェアーじゃないと思う。当時事実だとしても。まっそれを言っちゃ~戦争映画は作れないが。ただ卑怯極まりない日本兵を演じた日本人はどんな気持ちで演じてたんだろ?と思う。それだけです。
観終わってからずっと考えている、酒塚隊長は何故罪のない中国の村人を虐殺したのか?
姿の見えぬ「私」によって平和な村(日本占領下、海軍の小部隊が駐屯しているとはいえ)に運ばれてきた2つの“荷物”。それは麻袋に入れられた日本兵捕虜花屋(香川)と通訳の中国人。引き取りに来るまでこの荷物に傷をつけたら村人全員皆殺しだと脅されて、仕方なく2人に食糧などを与えて面倒を見る主人公。中盤までは村人がこの厄介な荷物を色々ともてあます様を、スラップスティックばりのユーモアで描かれる。言葉が通じないことによる(意図的な)誤解の可笑しさや、村人同士の責任のなすり合いや、役立たずの首切り人の登場などに大笑いしながらも、折々に見え隠れするスパイスが効いていて、その巧みな演出に舌を巻く。
しかし、村人が食糧と引き換えに花屋を、彼の部隊へ送り届けてから徐々に暗雲が垂れ込め、ジワジワとした恐怖に落ち着かなくなる。隊長は生きて帰ってきた部下を恥さらしと罵り体罰を与え、それでも「皇軍は約束は守る」というプライドのため村に大量の食糧を持っていく。このあたりの日本軍の描き方がやけにリアルだ。村人は日本軍に感謝を示し友好的な酒宴が開かれる。このシーンの陸軍と海軍の対比が面白い。村の子供たちに飴を配っている海軍隊長は、前線に出たことがないため、にこやかでのんびりとしている。しかし前線から戻ったばかりの陸軍隊長は、殺気立ち隙がない。宴もたけなわの中で突如始まる大虐殺。村人に対して友好的だった海軍隊長までが連鎖的に罪の無い子供までも殺してしまう。右へ倣えの軍隊の恐ろしさ。それまでのユーモラスな作風から一転した恐ろしい展開に呆然とするばかりだ。
何故こんなことになってしまったのだろう?これには幾通りの理由が考えられる。1つ目は言葉と風習や立場の違いによる誤解によって、村人は隊長の意図が分からず、立場をわきまえない態度をとってしまったため。2つ目は、隊長がはなから村人を大敵である中国共産軍の一味であると考えていたため。3つ目は、隊長の中国人に対する個人的な偏見と復讐のため。何故なら、隊長は虐殺が終わり、花屋が自決しようとするのを止めて初めて日本が既にポツダム宣言に受諾していたことを告げるのだ。何故だ!?戦争が終わっていることを知っていたのに、何故村人を虐殺したのか?戦争が起こした理不尽さと一言では片づけられない。
本作を表層的に観ると、村人たちにとっての「鬼」は日本軍で反日映画と捉えることもできる。しかし、ウェン監督が本作に込めたメッセージはもっと深い。「善人」の中に芽生える復讐という名の「悪」。「鬼」は誰の中にもいる・・・という性悪説のメッセージか?
いやいやそんな偽善的なメッセージをこの監督がここに込めるはずがない。もし本当に酒塚隊長の復讐心がこの虐殺の要因となっているとしたら、いったい誰に対しての復讐か?それはゲリラ戦を得意とした中国共産軍への怒りと憎しみだ。事の発端である、村に荷物を持ち込んだ「私」が共産軍だったとしたら・・・?監督が念入りに織り込んだ共産党批判、それゆえの中国国内公開禁止だったのではないだろうか?
最終的に主人公が斬首されるラストシーンも、「臭い物には蓋」的な不条理を明確に表現しており、ヴィジュアル的にも大変ショッキングだ。主人公が最後に観たものは酒塚に自分の処刑終了を報告する花屋の姿。その画面が主人公自身の血で染まる。モノクロ映像がここで初めてカラーとなる。その色は「赤」だ・・・。
やはり監督の言わんとしていることは・・・(ニヤリ)。ほら、落された主人公の首もニヤリと笑っているじゃないか・・・。