マタイによる福音書から監督としては日本初登場のピエル・パオロ・パゾリーニが脚色・監督したキリスト伝。撮影は「乞食」「ママ・ローマ」(共に日本未公開)でパゾリーニと組んだトニーノ・デリ・コリ、音楽はルイス・エンリケス・バカロフで、バッハ、プロコフィエフ、黒人霊歌などを駆使している。出演は、キリストにスペインの学生エンリケ・イラソキ、マリアに女学生マルゲリータ・カルーソ、年老いたマリアに監督の母親スザンナ・パゾリーニが、また使徒たちには監督の友人である詩人、評論家、作家それに農夫や体操選手など素人ばかり。
奇跡の丘評論(5)
1964年製作、監督はピエル・パオロ・パゾリーニ。
聖書「マタイ伝」のテキストをそのままセリフに使い、キリストの誕生〜磔刑〜復活を描いた本作。
聖書の物語を、超絶にリアリスティックな映像で撮っている。大袈裟な描写は一切なし。オールロケ・長回し・手持ちカメラの多用はドキュメンタリーを見ているようだ。
全く同じネタの『ゴルゴダの丘』(1935年ジュリアン・デュビビエ監督)が、当時の映像技術を駆使し、迫力ある群衆シーンや、キリストを取り巻く人々(ジャン・ギャバンがピラト役)の葛藤を入れ、壮大な物語に仕上げたのに対し、何とも淡々とした、淡々としすぎる映像。
それでも退屈しないのは、リアリスティックな映像が、自分もその場にいるような臨場感を生んでいるから。群衆の中に入り込んだカメラが、弟子の視点でキリストを捉えるシーンなど、私は鳥肌が立った。
パゾリーニ『ソドムの市』などの苛烈さとは真逆の、静謐な映像。
無神論者のパゾリーニが、何故、キリストの話を、リアリスティックに撮ったのか?
彼の葛藤が、静謐な映像の底に流れているような気がしてならない。
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追記:
現在、2014年度ヴェネツィア映画祭開催中であるが…。
コンペ部門に『パゾリーニ』(1975年に殺害されたパゾリーニの死に迫る伝記映画。監督はA.フェラーラ)が選出されている。その死から何十年たっても、パゾリーニは多くの関心を集めるのだろうか。
以前、A.フェラーラの『マリー もうひとりのマリア』(キリスト映画を撮る監督が登場する現代劇)を観た時に、パゾリーニ、そしてフェラーラ自身を模した話なのではないかと、勝手に思った(かなり乱暴な見立だが…)。
そんなフェラーラがパゾリーニを直接題材にして映画を撮った。日本でいつ公開されるか(公開出来るか)わからんが、『パゾリーニ』観たいなあと思う。
追記2:
新作『パゾリーニ』の主演は、W.デフォー。
デフォーは、『奇跡の丘』と同じ主題を翻案した、スコセッシ版『最後の誘惑』、トリアー版『アンチクライスト』の二本で主演している。ずいぶんと「丘」に見込まれた男だなあと思う。
私はキリスト教者ではありません。神社にもお寺にも、教会・モスク・お地蔵さんにもお参りをしてしまう、神的存在は信じるけど、特定の宗教とは距離を置いている人間。
そんな人間の感想です。(キリスト教者から非難来るかしら?)
映画では、
ほとんど無表情に近いアップが多い。
大工ヨセフが婚約者マリアに会い、お互い葛藤し、失望し、歓喜する場面はその演出が見事に活きているが(ドキドキする)、
他は説明もなく、監督が必要最低限と思っている台詞のみ(聖書の言葉のみなのね)なので、
キリスト教信者でない私は、”なんとなく”を読み取るしかない。
それでも筋は『ジーザス・クライスト・スーパースター』他で有名なキリストの一生なのでなんとかついていったけど、う~ん。
なぜ、ここでこのショット。こういう画にしたんだろうと…。
演技に共感すると言うより考えちゃう映画です。
母マリアは最後まで出てくるけど、育ての父ヨハネはどうなっちゃうの?イエスに兄弟いたんだ。
街が崩壊するシーンとか、この制作年代でどう撮ったんだろうと不思議な場面もありますが、基本はロケで、構図とかはそれなりですが、あまりにも淡々と進む。
役者は素人とな。
でも、日本の地方に根付く歌舞伎に似て、ヨーロッパ世界でクリスマスの劇を村・その地域で村人が演じ続けていると聞くから、そんな役者が集まったのか。聖書の言葉なら、日頃から親しんでいるだろうし。
とは言え、力強い映像。記憶に残る。あの場面、この場面。
アップと、引きのバランス感覚は見事。
…職場にもいる、こういう青年。
激して主張していることは正論なんだけど、空気読まずに、戦略考えないから、最終的に自滅していく。そんな様がだぶって見えてしまいました。
彼なりの正義に酔っていたのか、神=父という存在頼みの虎の皮をかぶった狐のごとき傲慢な姿勢が崩せなかったのか。
「育った町では布教できない」って言うところも、やけにリアル。故郷ではカリスマのベールは通用しない。
こういう聖書の一節を身体の隅々まで浸透させられているヨーロッパ・USAの人々。戦争がなくならないわけだ。
そして、”民衆(マス)”の恐ろしさ。
自分の利害・気持ちで風見鶏。同じく”正義”で人を追い詰め、命さえ奪う。責任感なしに。
映画祭でカトリック教会が賞を授けたという、お墨付きの神の物語。
でも、私には、葛藤しつつも己の信じるところを貫き通した青年の物語。
それが、淡々と描かれる。
人間の物語として観ると、老いたマリアの慟哭がただただ胸をかきむしられる。
そして、サロメの踊りが美しく、映画を通じて僅かな美的で引き込まれる場面。
余計な虚飾を一切排除した映画です。
NHKBSで放映された。秋の彼岸の頃には朝4時半はまだ真っ暗で、この映画を観ているうちにだんだん明るくなって来るのだろう。5時近くでもまだ真っ暗だ。車もトラックらしきのがたまに通るくらいだ。イタリアとフランスの合作映画らしい。1964年製作。白黒映画である。私にはまるで異文化映画だが、歴史映画でもある。キリスト誕生の時から話が始まる。私はキリスト教の背景を知らないのでマリアが処女のはずなのに妊娠して夫のヨセフが不信を持って家を出るが、女性が処女でも身ごもったのだという説明をして和解するところから始まる。後藤真希風のマリアが佇んでいるところから始まっていた。後は数々の聖書に記されているエピソードが忠実に映画化されたものなのか。知らされて赤ん坊のキリストを連れてマリアたちは逃げたが、他の赤ん坊たちが襲われて殺されていく野原のシーンは厳しい映像だった。まるで私の知識とかけ離れた映画だが、学校で習うようなバロック音楽が流れたりしている。私にキリスト教の知識がほとんどないので記述が荒くなるが、
洗礼を受けるシーンに入った。そしてキリストが登場した。ここで、ウィキペディアで少し調べると、
やはりこの映画は「マタイによる福音書」を映画化したものであるが、イタリア語の映画との事で、
監督のピエル・パオロ・パゾリーニという人はなんだか惨殺されて死んでいるらしく、一体どうしたことか、少し調べたいと思う。弟子たちがキリストが来ると唐突に弟子になってしまうのはかなり省略されているような気もするが、砂漠地帯の中での悲惨な人達が現れて来て、キリストと弟子たちが遭遇する。顔にひどい腫物が出た人がキリストの言葉で治ってしまう場面もかなり唐突である。私は一度くらい「マタイによる福音書」は読んだような気がするし、漫画でもみたことがあるので、なんとなく入っていけるが、この映画を最初から何の知識もなく観た場合は、なんだかわからない部分もかなり多いかも知れない。新聞屋さんは真っ暗な時に配達が大変だが、5時半少し前には明るくなっていた。5時頃に変化が起きていた。NHKBSのプレミアムシネマでは、この前には『奇跡のシンフォニー』というやや新しめの放映だったが、これらの映画の選択は意図したものなのだろうか。
誰かが選択しているはずであるから。杖をついたかなり歩行が困難な人が、キリストが「杖を捨てよ」という瞬間に歩けるようになるのも唐突だし、実際に目撃したら驚く。食べ物が急に増えるのも
驚いてしまうだろう。まるで先入観なしにこの映画をみたらなんだかわからない。海の上をキリストが歩いているシーンも、これは驚くだろう。ただ背景の音楽もそうだが、全体的に落ち着いて堂々としたような雰囲気の映画である。ある種のクオリアと言うのか質感がある。スピードが小津安二郎の映画にもゆったりした感じがあるが、決して安心したような雰囲気の時代や情景ではないのだが、ゆったりとしたところを感じる。「金持ちが天国に入るのは難しい。駱駝が針の穴を通るより難しい」と言ったが、なんだか勇気づけられたりする。確かに金持ちがもっと施せば貧富の差はもっと無いとは言える。「死者を葬ることは死者に任せよ」とは一体どういう意味か。嘆き悲しまない人も葬式仏教には参加できるという意味なのか。「誘惑をもたらす者はわざわいである」。性倫理に関しても、誘惑する者、される者の関係が罪である。これが現在の日本、いや世界中なのだろうが、乱れてしまっている。しかしこのパゾリーニという映画監督だが、共産主義者だったが、青年への淫行疑惑で除名され教師の職を失った過去があったと言う。そして最期は、ネオファシズム批判の映画を製作し、出演者の少年が同性愛被害を受けたのを恨み惨殺したと為されたが不信な点があり、2005年になって当時の少年が脅されて偽証をさせられたと述べたとウィキペディアにある。なぜそうした
波乱の人生のパゾリーニという人がその途上で、「マタイによる福音書」という西洋の思想に影響を与えた所の教科書的映画を作ったのだろう。そして、この映画を観た私にとって一体なんだろうか。
この映画鑑賞は、私の貴重な、しかし浪費しすぎた人生にとって、合理的な時間だったのだろうか。イタリアの男性なんて声を女性にかけまくるというのは本当なのか?ただ、私は性の破壊的状況、乱倫状況を憂うる。十字架に架けられる寸前のキリストの言葉の群に至っては私には意味が難しくて理解出来ない発言の連続になっていた。強者や資本主義は当時は無かったが、そういうような方向への批判もパゾリーニという人にはあったのかも知れないが、取税人や娼婦も神様を信じていたほうが救われるのような話が幾つか入ったところは、パゾリーニという人の同性愛からの青年への淫行疑惑が影響しているのだろうか。かんいんするなという戒律が入っているはずだから、矛盾な感じもする。なぜNHKBSの関係者がこの映画をこの時期に選択したのだろう。改心や許しというのが重要テーマの一つなのだろうが、改心や許しを行わなくても済むような、それ以前の悪からの予防というのは教育からだろうが、悪が行われた後の悪人への対処は甘くてもいけないと思うが。
「剣を取るものはすべて剣に滅びる」。
いつも場面を想像しながら読む聖書だが
なんだかイメージビジュアルがこの映画で出来上がってしまったかも
キリストがルオーの描く肖像画とそっくりなの(笑)(イケメン)
それにしても見事なロケーション
ガリラヤの丘、湖、住居、それはあたしの想像通りであり
想像を超える美しさであることが引き込まれた要素で
大げさなドラマ演出なく
淡々と聖書の中の真実が画き出されているのが秀逸
そのかわり音楽はドラマチック!「マタイ受難曲」