「華氏451」の撮影監督で、「赤い影」「パフォーマンス」などの監督作でも知られるニコラス・ローグが手がけたSF映画の名作。ウォルター・テビスの同名小説を映画化し、当時、グラムロックの貴公子として人気を博したデビッド・ボウイが映画初主演を務めた。心ならずも地球に落ちてきた異星人が、不毛の地となりつつある母星を救うため、世界的な特許をもとに会社を経営していく。しかし、そのビジネスの成功が思わぬ結果を招いていく……。「バッフィ
バンパイア・キラー」のキャンディ・クラーク、「ヘラクレス」のリップ・トーンらが共演。日本初公開は1977年で、119分の短縮版が公開された。99年に約140分の完全版として公開。2016年1月にボウイが他界したことを受けて、同年7月にリバイバル公開。
地球に落ちて来た男評論(8)
あらすじ自体は、いたってシンプル。
アクシデントで地球に落ちてきちゃった宇宙人。宇宙人(?)ならではの知識を使って事業に乗り出す。資金を貯めて故郷の星へ帰るための宇宙事業に着手するが、阻まれて故郷に帰り損ねる。そんなストーリー。
あらすじはシンプルでも、後半、酔っぱらいの妄想のような映像が続くので。
ああ、これは、主人公がちょっとおかしくなっちゃって、「オレ、宇宙人」って言い出してるだけなのでは?(劇中でも「宇宙人の証明」は出来ていない。愛人は信じるが、ほとんどの人は疑っている)。
そもそもの「事業で儲けた」の部分も妄想なんじゃね?イギリスからアメリカに流れ着いた酔っぱらいの夢なのでは?イギリスの酒ビーフィーターばっかり飲んでるし。そんな気もしてくる。
妄想系というか、この世は誰かがみている夢にすぎない…「水槽の脳」的な、独我論の映画にも見えてくる。
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そうは言っても、やっぱり、宇宙人だなあと感じるシーンも多々ある。
宇宙人に惚れる地球の女。
最初の方は、おっぱいなんかも小さくて初々しい娘だったのに、年月を経て、腐りかけが一番美味しいを通り越し熟女というかアル中のババアになっていく。(もちろんメイクなどの力もあるが、演じているキャンディ・クラークがホントに素晴らしい)。
対して宇宙人のデビッド・ボウイは変わらない。年取らない。不老不死な感じさえする。やっぱり宇宙人だなあと思わせてしまう、存在感。(撮影当初、デビッド・ボウイの演技が下手だから声は吹替にしようとしたプロデューサーが居たらしい。上手いとか下手とかを越えたハマり役なのになあ)。自分が宇宙人だと理解してもらえない者の断絶が、よく出ていたなあとも思う。
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そして、ニコラス・ローグ監督といえば「ベットシーン」が特徴的だが。
デビッド・ボウイとキャンディ・クラークのベットシーンも素晴らしい。絡み合って一体化して、まるでクリムトの画のようになってしまう二人。
一体化したのに。
それでも、男が女の全てを引き受ける事は出来ないし、女も同様で、二人の間には、埋めがたい断絶がある。
断絶の哀しさと、それが判っていて尚、身体をまさぐりあう優しさ。
ニコラス・ローグの「ベットシーン」は、過激さのみが取り上げられがちだが、どこか哀しく優しい(名作『赤い影』も同様)。
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故郷に帰れない宇宙人という設定と、他者との断絶というテーマが絶妙に混じり合う映画だが。
ラストの「音楽はラジオの電波に乗って故郷の星に届くかもしれない」は、断絶を越える何かがあるはずだという希望が微かにあって、それも胸をうつ。
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追記1:
ニコラス・ローグ監督『ジェラシー』はクリムト画がモチーフに使われているが、主演のアート・ガーファンクルにクリムト感はない。本作のデビッド・ボウイの方がクリムトっぽいなあと思う。(『ジェラシー』も好きだけども。)
追記2:
裸のシーンが印象的なニコラス・ローグだが、一番好きなのは『美しき冒険旅行』の泳いでいるシーン。あれ、どうやって撮ったのかな?と不思議に思う。
いまとなっては若き日のボウイが見られること以上の意味は無くなってますね…
ただ、あの役はボウイにしかできなかったでしょう。
以上。
こんなに美しく無機質な人間が存在したんだなあってぼんやり感心。
登場する人たちが、皆ことごとく満たされず陰鬱で可哀想なお話。
しかもボウイ扮する宇宙人ニュートンがひたすら虐げられていて、そこに普遍的な無意識の被虐を見るよねえ。
映画館で観て良かった。
ボウイファンなら充分楽しめた。
でも途中からなんだかわからない話になった。音楽、映像に昔のアメリカ映画など出てきた。