映画史にその名を残すイタリアの巨匠フェデリコ・フェリーニの代表作として知られる自伝的作品。一流映画監督のグイドは、新作の構想に行き詰まってしまいクランクインを2週間も先延ばしにしていた。療養のため温泉地を訪れるグイドだったが、女性たちとの関係や仕事上の知人たちとの現実に悩まされ続けるうちに、様々な夢や幻が彼の前に現われるようになり……。
日本初公開は1965年。その後、1983年にフランス映画社配給で公開。2008年にはオリジナルネガを完全修復してよみがえらせたニュープリント版(ザジフィルムズ配給)が公開されている。2020年には、フェリーニ生誕100年を記念した「生誕100年フェデリコ・フェリーニ映画祭」(20年7月31日~8月20日=東京・YEBISU GARDEN CINEMAほか)で4Kデジタルリマスター版が上映。
ジェントルマン
プロット
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02月09日 上映
梟 フクロウ
プロット
韓国
02月09日 上映
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プロット
日本
02月09日 上映
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プロット
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02月22日 上映
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02月23日 上映
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8 1/2評論(10)
現代人は忙しくて美学に与していられない。端的に面白がらせてくれる映画を好む。──ということ、なのかもしれない。
8 1/2を見返していると、その到達している値に感心し、ペーソスに共感する。
車の上で両手を開き帆のように風を受けているグイド。陽気にダンスする醜女サラギナ。黒縁をかけて黒いカウボーイを被り、シーツをトガのようにまといムチを振るグイド。マントを背に楽隊を連れて行進する幼グイド。それらは教典のように一般化したシンボルであり、こんにちの映画に、そのようなキャラクター設定を見ることはできない。
が、見ていて、正直な感想としては、まどろっこしい。
評点するなら、名画には天井がない。
が、じっさい見ていて、どうだろう。アベンジャーズのほうが楽しいんじゃなかろうか。古典と現代の映画の間には、この種のジレンマがつきまとう。新しけりゃいいってもんじゃないが、巷間ではつねに新しい映画が価値をともなう──わけである。
ただ個人的には、古典名画を面白かった/面白くなかったという観点だけで評点してしまえるほど、強くはない。
そもそも、古典に描かれた人情に与しなくなったのは、それが経年のあいだに、数限りなく模倣されてきたからだ。
誰の幼少時代にも、どこかにかならず存在する淫奔なサラギナや、ひとりになって幕間に消える子供のグイドが、それほどの哀感たりえなくなったのは、たんに、わたしが、年をとって、その間にもさまざまな創作に触れてきたからだ。そのことを度外して、古典に現在評価をつけることはできない。それは強いというより、不遜なことだと思う。
まったくのところ、現代社会から見るとき、グイドの低回や周囲にたいする狭量は、どうでもいいようなポゼッションに基づいている──と思う。感傷も過ぎる。
が、それは、わたしが苦悶する主人公という設定に、数限りなく触れてきたからにほかならない。
そして、なぜ悩める映画監督が、冗長なキャラクターになってしまったかといえば、世界中の人々が8 1/2のグイドのキャラクターを愛し、影響を受けてきたからにほかならない。
すなわち古典がまどろっこしく見えるのは、フェリーニが愛され、数多の創作の主人公のなかに伝播して宿ったからだ。──と思っている。
そもそも古いものを見て「古い」という感想を持つなら、古い映画を見たりはしない。映画と自分の間、1963年と今の間、それを埋めるのは鑑賞眼そのものである──と思う。
映画は、縦横に寄り道し、アイデアをはらみながら、言いたいのは追憶と悔恨であろう──と解釈している。
やくたいもない大人になって、振り返ってみると、愛憎と慚愧だけがあって、子供時代を脱してから、純心だったことはひとつもない。──という普遍の気分が描かれている。
がんらいペシミスティックな映画だが、フェリーニはほんとは道や崖のように、絶望に費えるのをやりたかったのだが、興行観点から多少の希望をかいま見せた──ような気がした。
この映画の面白いところはそれを不条理で混沌としたストーリー構成で表現している点だ。ストーリーなんてものはそもそもない。どこまでが現実でどこからが空想なのかさえよくわからない。この後こういう感じの映画はずいぶんたくさん作られたがこれが最初の傑作かな。 カメラワークも実に面白いところがたくさんある。 例えば最初に愛人が現れる部分。 最初のカットではとてもキュートで可愛く見えるのだが、 他の物を映して、また彼女にカットが戻るとそのたびにだんだんアップが大きくなっていく。そうすると、かわいい→威圧に変わっていく。 また別なシーンでは 可愛い女がやってきてそれをカメラがフォローしていくと 突然て手前にその子そっくりな醜い年増女が立っていてびっくりする。 そんなカメラワークの工夫が 全般にわたって凝らされている
最後は盛り上がって楽しそうに監督をしているが、そこがそこはかとなく悲しく寂しいね。それまでのシーンでずっと彼の内心を描いてきたわけで。ラストシーンで彼は楽しそうに仕事をしてるが心の中はあーなんだなあなんて。
ただ、やはり長いので疲れる。体力の自信にない人は途中でいっぺん休むことをお勧めする。
少なくとも僕には理解できなかったのです。
そんな僕に理解できたところは映像と音楽がアンバランスなのに、何故か融合してしまっている事。
お茶を飲んでるところでワルキューレの騎行?と思うがそれが何故か物凄くマッチしてしまう。
映画が現実や空想からとユラユラ揺れてるので、映像と音楽が合ってなくても合ってしまうのかな。
頭がぼっーとして、何となく映画をみてしまっているのだが時折突き抜けるような鋭い台詞もある。
そんなときは現実に戻される。
現実と空想をユラユラと揺れるなんだか麻薬のような映画でした(麻薬の経験はありませんが)
いつかまた観てみたいと思います。
いつか。
女性の描き方がうまい作品はいい作品になる。そう僕は思います。
情熱的かつ幻想的なこの映画に出会えて良かった。
甘い生活と少し似たようなテーマだったと思う。別の角度から見てみたような。とにかくとても良かった。
以前一度鑑賞した時はまだDVD化されてなくてVHSで鑑賞した。やや難解な内容だという事とラストシーンの強烈なお祭り感だけは印象に残っていたが、殆どの内容は忘れてしまっていた。今回はBlu-rayで鑑賞。
ストーリーは主人公の夢の中や現実の世界、空想の世界、少年時代の記憶などを唐突に行き来するのだが、余計なことや野暮なことは一切説明されないので、これはこうでこれはこうなのかと自分の頭で結論を出していかなければならない。なので内容を噛み砕くのに少し時間がかかった。この唐突に現実や空想を行き来するのは、迷いや悩みで混沌としている主人公の思考を展開に投影してるのだと思う。
主人公は女性関係の理想と現実のギャップに苦しみ、いよいよ最高の理想であるハーレムを空想の中で思い描き楽しむ。しかし現実はそうはならない。仕事の方もプレッシャーと葛藤で行き詰まり、御託を並べる脚本化を空想の中で死刑にする。しかし現実は変わらない。空想の中で最も神格化している女性クラウディアに最後の希望を抱くが、彼女も空想の中で描いていたクラウディアとは違い突き放されてしまう。理解してくれる人は誰ひとりいない。絶望感とプレッシャーに押し潰された主人公は自殺を選択する。
フェリーニ監督の映像の魅せ方はとても綺麗で、特に女性の魅せ方が凄いと思った。相変わらずクラウディア・カルディナーレの美しさは圧巻だった。
「人生はお祭りだ。一緒に過ごそう。」はシンプルで分かり易くて素晴らしい名台詞。それまでの苦悩や葛藤が全て吹っ切れたラストのお祭り騒ぎは爽快だった。人生には苦悩や葛藤は付き物で色々と難しい事を考えてしまうけれど、どの道最後は死んでしまうのだからそんな堅苦しい生き方は辞めて、人生をお祭りみたいに騒ぎ楽しもうじゃないか!
そんなフェリーニ監督のメッセージと心の叫びを感じた。